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東京地方裁判所 昭和57年(ワ)4954号 判決

昭和五七年(ワ)第四九五四号事件原告(同年(ワ)第一〇九〇七号事件被告)

山岡節雄

右訴訟代理人弁護士

和田衛

昭和五七年(ワ)第四九五四号事件被告(同年(ワ)第一〇九〇七号事件原告)

奥田時治

右訴訟代理人弁護士

川島仟太郎

主文

昭和五七年(ワ)第四九五四号事件被告は同事件原告に対し、金一六八万円及びこれに対する昭和五七年五月七日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

昭和五七年(ワ)第四九五四号事件原告のその余の請求を棄却する。

昭和五七年(ワ)第一〇九〇七号事件原告の請求を棄却する。

訴訟費用は昭和五七年(ワ)第四九五四号、同年(ワ)第一〇九〇七号、両事件に関して生じた分の全てにつき昭和五七年(ワ)第四九五四号事件被告の負担とする。

この判決は右第一項に限り仮に執行することができる。

事実

(以下昭和五七年(ワ)第四九五四号事件原告(同年(ワ)第一〇九〇七号事件被告)を原告と呼び、昭和五七年(ワ)第四九五四号事件被告(同年(ワ)第一〇九〇七号事件原告)を被告と呼ぶ)

第一当事者の求めた裁判

(昭和五七年(ワ)第四九五四号事件)

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金二三八万円及びこれに対する昭和五七年五月七日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

(昭和五七年(ワ)第一〇九〇七号事件)

一  請求の趣旨

1  原告は被告に対し、金五四八万九〇〇〇円及びこれに対する昭和五七年九月二五日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  被告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

第二当事者の主張(以下事実略)

理由

一  被告は、昭和三〇年に税理士の資格を取得し、以来、自宅を会計事務所として、税務、会計に関する業務に従事しているものであること、原告は、昭和三四年二月、被告に雇用され、以後被告の業務に従事し、昭和五一年に税理士の資格を取得して後も被告事務所に勤務税理士として勤務してきたが、昭和五六年七月三一日退職し、練馬区に税務事務所を設けて、独立して税理士業を営むようになったことについては、当事者間に争いがない。

成立に争いのない(書証・人証略)を総合すれば、次の事実が認められる。

原告と被告とは縁戚にあり、したがって、被告は、原告を雇用した当初は原告を自宅に住み込ませて生活の面倒をみてやり、更に、原告の結婚、税理士資格の取得についても尽力してやり、一方、原告も、被告に恩義を感じて、税理士資格取得後も勤務税理士として被告事務所の業務に従事してきた。昭和五六年当時、被告の顧問先は九〇軒ほどあり、これを被告、原告のほか、一〇名近い被告の従業員が分担して処理しており、原告も右顧問先のうち二〇軒ほどを担当していたが、被告事務所において、税理士資格を有する者は、被告と原告の二名だけであった。原告は、昭和五二年頃から、自分の将来を考えて独立して税理士業務を始めたいと考えるようになり、時折その旨を被告に述べたものの、被告の同意を得られずにいたが、昭和五六年六月末頃、原告は被告に対し、再び七月末日で被告事務所を退職して独立したい旨を話したところ、被告もようやくこれに同意するに至った。被告事務所には職員勤務規定が存在し、退職金支給については勤務年数が一年加わるごとに退職時の本給の〇・五カ月分ずつを増加することを定めた基準表によって支給する旨の規定があり、原告の昭和五六年六月当時の本給は月二三万円で勤務年数は二二年余であるから、右規定に従えば退職金額は二五三万円であった。ところが、被告は、右原告が退職を申し出た昭和五六年六月末以後退職予定日である同年七月末までの間に、原告が被告の顧問先に対して被告の悪口をいって独立後原告の顧問先となるよう勧誘しているとの噂を耳にし、前記被告の職員勤務規定第一四条には「重大なる過失刑罰にて退職する者、勤務成績甚だしく悪く規律を乱したる者には規定の退職金を否認削減することあるべし」と規定していることから、原告の退職金を半額に減額しようと考えるに至った。そして、原告の退職の当日、被告は、既に文面を作成しておいた「退職後は事務所の名誉を毀損したり顧問先を承諾なく奪ったりしない」旨の念書を原告に示してこれに捺印することを求め、右念書に捺印しなければ退職金を支給しないと述べた。原告は、右念書の内容は当然遵守すべきことであると考え、求められるままに念書に捺印して被告に手渡したが、その後被告から渡された退職金が原告の予測に反して一一五万円しかなかったことに立腹し、即座に一旦手渡した右念書を被告の手から取り戻してこれを揉みつぶしてゴミ箱に投げ捨て、一一五万円を持ってその場を立ち去った(被告本人尋問の結果中には、右念書に捺印を求める前に被告は原告に対して退職金が一一五万円であることを話した旨の供述が存するが、同供述は原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨に照らして措信できない)。その後、昭和五六年八月、被告は、原告主張の内容の弁護士川島仟之助名義の文書を同弁護士に無断で作成し(被告は本人尋問において、右文書は同弁護士に相談して作成したものである旨供述するが、同文書はその文章内容からして同弁護士と相談の上作成されたものとは考えられず、また、原告本人尋問の結果中にも、同弁護士は同文書については関知していないと述べていた旨の供述部分が存するので、被告の右供述は採用できない)、また、右原告によって破棄された念書と同一内容の念書を被告が勝手に作成し、原告名義の押印をして、右文書と念書のコピーを少なくとも原告が従前担当していた被告の顧問先二〇名に送付した。

以上の事実が認められ、これら認定を覆すに足りる証拠はない。

一方、成立に争いのない(書証・人証略)によれば、原告は被告事務所の他の職員に比べて遅刻が多かったことは認められるが、右原告本人尋問の結果によれば、原告の遅刻が多かった理由として、原告は、事務所の責任者的立場にあったため、仕事を自宅に持ち帰って処理し、これが深夜に及ぶこともあったために翌日遅刻する結果となってしまった事情があり、仕事を怠けての遅刻ではなかったことが認められ、これに反する証拠はない。また、遅刻以外の原告の勤務成績不良の点については、被告本人尋問の結果及びこれによって成立の真正が認められる(書証略)によるも、原告の具体的な勤務成績不良の事実を認めることはできず、他に同事実を認めるに足りる証拠はない。

更に、被告本人尋問の結果によって成立の真正が認められる(書証・人証略)によれば、原告が被告事務所を退職して後、その年内に、従前原告が担当していた顧問先二〇軒のうち別表(略)記載の一〇軒の顧問先が被告との委嘱契約を解除し、その内八軒がその後原告と委嘱契約を結んで、現在、原告の顧問先となっていること、原告は、退職に先だって、担当する被告顧問先の何軒かに退職する旨を述べて挨拶したことなどが認められるが、さらに被告が主張する、原告が、被告顧問先に対して今後の被告事務所の衰退を流布して自己の顧問先になるよう誘導したとの事実については、被告本人尋問の結果中のこれに添う供述部分は被告自身の単なる想像を述べたにすぎないものであるからこれによって同事実を認めることはできず、(書証略)も、これによって原告が自己の顧問先となるよう誘導したものであるとまでは認定することはできず、他に右事実を認めるまでの証拠も存在しない。この点、更に詳述すれば、一般に勤務税理士を雇用する会計事務所において、会計事務所の顧問先は全て事業主の顧問先ではあるが、顧問先は、担当の勤務税理士と長年税務処理の付き合いをしているうちに、事業主に対してよりも担当の勤務税理士に対して、より厚い信頼をおくようになる状況が屡々生じることがあり、このことは、東京税理士会が被告主張のごとき紀律規則及び同取扱細則を設けていること(同紀律規則及び同取扱細則の存在については当事者間に争いのない事実である)からも伺い知れるところであり、したがって、本件において、従前原告が担当していた顧問先の多数が原告の退職後被告との委嘱契約を解消し、かつ、解消した顧問先の多数が現在原告の顧問先となっているとの事実のみでは、これがひとえに原告の不当な誘導による結果であると断ずることはできず、また、原告が退職前に担当顧問先に対して退職する旨を述べて挨拶した点についても、右紀律規則及び同取扱細則の趣旨を尊重すれば、その挨拶を口頭で述べずに挨拶状で述べる等、不当な誘導を疑われることのないような慎重な配慮をすることがより望ましかったとはいえ、単に挨拶として退職の事情を述べるだけで、積極的に退職後の自己の顧問先となるように勧誘する等の行為をしていない場合には、必ずしも右紀律規則、同取扱細則に違反するとすることはできず、一方、(書証略)によっても、原告が勧誘行為をなした事実までを認定することはできないものと思料する。

二  そこで、叙上認定の事実によって、以下、原告及び被告の各請求について判断する。

まず、原告の退職金請求につき検討する。退職金は、古くは労働者に対する雇用主の恩恵的支給であると考えられていたこともあったが、今日では、これを必ずしも恩恵的なものにすぎないとは考えず、少なくとも、就業規則その他により支給基準が明確になっている場合にあっては、退職金は賃金の後払い的性質を有するものであり、労働者は、法的に退職金請求権を有するものである、と解するのが一般である。本件においても、原告の退職金は、被告職員勤務規定により具体的に算出しうるものであり、したがって、その財源が労働者の在職中の給与からの控除によるものか雇用主の出資によるものかにかかわらず、単なる雇用主の恩恵的給付にとどまるものではなく、法的権利であると解すべきである。ところで、被告職員勤務規定第一四条が「重大なる過失刑罰にて退職する者、勤務成績甚だしく悪く規律を乱したる者には規定の退職金を否認削減することあるべし」と規定していることは前認定のとおりであるが、原告が自己都合で退職したものであることは前認定の事情から明らかであり、したがって、「重大なる過失刑罰にて退職する者」には該当せず、また、前認定の事情をもってしては「勤務成績甚だしく悪く規律を乱したる者」にあたるとは認められないから、右規定をもって原告の退職金を減額又は否認することはできないものであると解する。被告職員勤務規定に従えば、原告の退職金額が二五三万円であること、しかるに、原告は退職金として一一五万円を受領したのみであることは前認定のとおりであるから、原告は、被告に対し、退職金残金一三八万円を請求しうるものである。なお、原告の退職金請求権は、被告の恩恵によって恣意的に支給するものではなく、法的な権利であると解すべきことは前判示のとおりであるから、捺印した念書を原告が被告に交付することを退職金支給の条件とすることは許されず、同念書の交付いかんにかかわらず、被告は原告に対して退職金を支給すべきものであると思料する。

次に、原告の慰藉料請求について判断する。被告が、昭和五六年八月、原告主張の内容の弁護士川島仟之助名義の文書と原告によって一旦破棄された念書と同一内容の原告名義の念書を被告が勝手に作成したものとを、被告の顧問先の何軒かに送付したことは前認定のとおりであるところ、右弁護士川島仟之助名義の文書の記載内容には、原告に関して、「百十五万円の大金の奪取、名誉毀損、税理士法の違反等数々の犯罪を犯している犯人」との穏当ならざる記載が存し、一方、前認定の事実によれば、一一五万円の大金の奪取との点は被告の独善的評価であって真実に反するものであり、名誉毀損、税理士法の違反の点については確たる証拠に基づくものではなく単なる被告の憶測によるものであり、仮りに、右文書の送付が従前の被告の顧問先を原告に奪われるのを防止する目的でなされたものであったとしても、弁護士名義でかような不穏当な内容の文書を送付することは社会通念上も許容されるものではなく、また、同時に送付した念書についても、たとえ原告が従前に捺印したことのある念書と同一内容のものであっても、これを原告が一旦破棄している以上、その後に被告が原告の承諾なく勝手に同一のものを作成してこれを真正なるものとして送付することは、刑法上の私文書偽造・行使の罪に触れる行為であって、違法な行為というべく、被告のなしたこれら行為によって原告に損害を与えた場合には、被告は原告に対し、不法行為による損害賠償の責に任じなければならない。そして、税理士として開業した原告が、右被告の行為により、その名誉、信用を毀損され、精神的苦痛を蒙ったであろうことは容易に認められるところであり、右苦痛に対する慰藉料としては金三〇万円が相当であると思料する。

一方、被告の本件請求については、前認定のとおり、被告が主張するような原告の不法行為該当の事実を認めることはできず、被告の本件損害賠償の請求は失当であるといわざるをえない。

三  以上述べたところによれば、昭和五七年(ワ)第四九五四号事件に関する原告の請求は、退職金残金一三八万円及び慰藉料金三〇万円並びにこれらに対する昭和五七年五月七日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余については失当であるからこれを棄却することとし、昭和五七年(ワ)第一〇九〇七号事件に関する被告の請求は、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 杉本正樹)

別紙(略)

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